小平三中は、いよいよ平成23年度で創立50年という重要な節目を迎えることとました。それを受けて、本年10月29日の土曜日に記念式典を執り行います。式典では、教育委員会の委員長を始めとした来賓の皆様から挨拶を頂き、学年ごとでの音楽祭課題曲の合唱、合唱部による合唱、8組生徒による太鼓、吹奏楽部による演奏など、全校生徒で式を創り上げていきます。
さて、この「50周年記念の部屋」では、小平三中の50年に渡る変遷を、主に校舎の沿革を中心として紹介していきたいと思います。昔の懐かしい写真を掲載しますので、お楽しみください。
まずは、30周年→40周年→50周年に渡って航空写真を並べ、校舎及び周辺の風景がどのように変化していったのかを見ることにしましょう。
![]()
左上→上→左 の写真の順に、30周年(平成3年度)・40周年(平成13年度)・50周年(平成23年度)の航空写真を並べました。これを見て頂いても分かるとおり、平成に入ってからは、校舎そのものに大きな変化はありません。特別棟・南校舎・北校舎・体育館・プールの位置は20年前のままです。
周辺の風景も昔ながらの住宅地でそれ程の変化はありませんが、この20年で徐々に宅地化が進んでいるようです。これらの写真では見づらいと思いますが、主に校舎の南側・東側にあった広大な畑が、住宅地に変化しています。特にここ数年で、小平三中の周辺においてマンションや一戸建てが増えているようです。
それでは、現在の小平三中の姿はいつ頃からできあがったものなのか、コンクリートの建物になる前の小平三中はどのような形をしていたのか、見てみることにしましょう。
下の写真は、昭和36年に小平三中の木造校舎が落成した時の写真です。周りは畑しか無く、手前にある東たかの道が当時の面影を今に残しています。(当時は小平市における人口増加を受け、小平一中の分校から独立して誕生しました。)
※写真下の新聞記事と人口増加状況のグラフを参照してください。新聞記事は昭和36年5月当時のものですが、その頃の全校生徒数が731人(16学級)と記載されているので、現在とほぼ同数の生徒が当時在籍していたことが分かります。
この木造校舎ができたばかりの三中の校庭は非常に水はけが悪く、通称「三中湖」と呼ばれていたそうです。
この頃発行されていた「小平三中新聞」内にある投書箱欄には、三中湖の改善を求める生徒の意見が記載されていますので、一部抜粋を紹介します。
『・・・本校の校庭は、お皿のようだ。雨が降れば、湖同然。そして、この水が無くなるまでの何日間は、体育ができないばかりか、ぐちゃぐちゃ。これじゃあ、昇降口の掃除も、たまったものじゃない。・・・(中略)・・・早く運動場を直してください。』
今でも三中の校庭は水はけが悪く、雨が降った後の現状復帰は大変ですが、当時はそれどころではなかったようですね。
なお余談ですが、三中湖についての「苦情」が書かれている「小平三中新聞」について言及しましたが、これは偶然にも三中内にある資料庫の中から、ほこりをかぶった状態で発見されたのです(昭和39年3月発行)。結構保存状態がよかったので、この場で全部を紹介させて頂きます。
この小平三中新聞は、生徒会主導で作成されていたようです。中身をよく読むと、当時の世相や今も昔も変わらないものが見えてきます。短歌をしたためる2学年の生徒、生徒会の活性化に奮闘する生徒会長、図書室をより良くするための意見集約、各クラブ(部活)が校庭を公平に使用するための委員会活動・・・当時の三中の状況が見えてきます。
その中でも印象的なのが、裏面にある教育実習生の感想文です。
「教室が明るくきれい・・・」現在の小平三中が目指している教育環境を整えるための教室整備の考えは、この頃から根付いていたのかもしれませんね。
「美しい富士山を遠くに眺めることのできる三中・・・」周囲が宅地化された今、教室の窓から遠く離れた富士山を眺めることはなかなか難しくなってきましたが、半世紀前は周囲に畑しかなかった頃です。さぞかしきれいな富士山が見えていたことでしょう。
「残念なことは、この学校には学校花壇が少ししかないことです。」この部分が、現在の三中の姿とは大きく異なるところです。現在の三中は、校内にきれいで色とりどりの花壇が来校者の心を和ませてくれます。やはり学校花壇は、今も昔も学校にとって大事なものなのです。
小平三中新聞は、こちらからお入りください